『大室家』を読みましょう、の話

時が経つのは早いもので、夏休みが始まってからもう一週が経った。

一週間前には、充実した毎日をあれこれ夢想していたはずが、蓋を開けてみれば大した戦果も挙げなかったと見える。このままではNANともCANともICANゆゆ式事態なので、とりあえず何か書くことで精神の安寧を図ることにする。

 

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大室家(既刊2巻)

 

 なもり先生の代表作、『ゆるゆり』のスピンオフ作品。同作に登場するキャラクター大室櫻子と、その姉大室撫子、さらに妹の大室花子たち三姉妹(タイトル通り「大室家」というわけだ)の、『ゆるゆり』では描き切れなかった交友を「繊細かつ大胆に」描く。

 さて、本作では大室家での三姉妹百合に加え、(本編に比べると微量ながら)ひまさくや、花子が通う小学校での百合(小学生百合?と言ってしまうとやや危険な響きがする)が描かれていくわけだが、今回は大室家の姉、大室撫子の百合的学友関係に注目していきたい。

 大室撫子は大室櫻子より5歳上の18歳で、高校三年生。学校では主に決まったグループで行動をし、清楚で真面目なタレ目系美少女の三輪藍、お嬢様的見た目からは想像もつかないほどのドSっぷりを誇る八重野美穂、そしてツッコミ兼イジられ役兼バイトリーダー担当の園川めぐみたち三人と共に、休み時間に駄弁ったり予定が合えば週末にカフェに行くなどしている。

 といった所で、ここまで見ただけでは、よくある日常系作品とそう変わらないようにも見受けられる。

 しかしこの関係、実は只者ではないのだ。

 その秘密は、彼女たちの初登場回『大室家の3』にて早くも明かされる。

 平日の風呂上がり、撫子は携帯を片手に落ち着かない様子で時計をちらちら見ている。そして時計が午後の10時キッカリを差した瞬間、携帯電話は待ち構えていたように着信を告げ、通話先の何者かとの会話が始まる。いったい誰と話しているのだろう。そう思った次の瞬間、撫子の口から思いもよらぬ一言が発せられるのだ。

 

 

 「ねぇ 私学校で普通にできてる?」

 

 

この人の言っていることが、わからないーーーーー 

 

 

 電話の相手はなんと、大室撫子の同級生兼「恋人」......

 学校では周囲の視線もあり中々連絡の取り合えない二人は、こうして電話越しの逢瀬を重ね、毎夜愛を深め合っているのである。つまり、事実上の「テレフォン〇〇〇ス」というわけである。

 話を戻して、では大室撫子が毎夜電話越しの愛を囁いている「同級生兼恋人」とはいったい誰なのだろうか。

 

 

 これが、明かされないのである。

 

 

 作中では撫子と恋人とのメールでのやり取りやおうちデートやお揃いのアクセサリーやら諸々云々の描写が重ねられるのだが、そのどれをとっても、いったい恋人は誰なのかを予測することはできないようになっている。

 三輪藍か、八重野美穂か、園川めぐみか、はたまたモブの同級生か、まさか教師か?

 まさに、読者の妄想次第というわけである。

 

 ところで、『となりの吸血鬼さん』という作品がある。不勉強ゆえ私はアニメ版しか見ていないのだが、簡単に言うと、森の洋館に住むクール系ゴスロリ(?)吸血鬼美幼女と、彼女を日夜人形化しようと画策する美少女(≠マッドファーザー)の奇妙な同棲生活を描いた作品である。

 吸血鬼と人間の百合的関係を描いた作品は多く、『吸血鬼百合』なるジャンルが確立されるほどである。しかしこの作品の特徴の一つは、そうした『吸血鬼百合』の作品が描き出す、「吸血」という行為のビジュアル的な強烈さから生じる肉体的描写は抑え目にして(というかほぼ描かれない)、彼女らの日常的情緒的な交流に焦点を当てた点にある。

 要は「重くない」わけである。吸血鬼は人間から直接血液を摂取することなく、インターネット通販でボトル入りの既製品を取り寄せるし、吸血鬼は夜間でないと活動できないので、当然重度のアニメオタクである。

 ところが、私はこの作品を観たときに単純に日常系作品として鑑賞できなかった。

 というのは、この作品の随所に見え隠れする「吸血鬼と人間のあいだにある種族の壁」を思わずにはいられなかったためである。

 吸血鬼は、一般に不死の存在である。事実、主要キャラの「ソフィー・トワイライト」も、見た目は13歳ほどの年端もいかない美幼女でありながら、実年齢は驚異の360歳(ぐらい)である。一方でソフィーと同棲生活を共にする少女、天野灯はまだ高校生。その年齢差は優に300歳を超える。

 また、人間は吸血鬼と違い、いつかは死ぬ。いつまでも13歳の見た目と永遠の命を保持し続けるソフィーの隣で、灯は年齢を重ね、老い行き、やがて死ぬ。

 そう考えながらもう一度ふたりの同棲生活を観たときに、そこはかとない儚さと哀愁を感じないだろうか。

 死の直前に灯に寄り添い、彼女の別れの言葉を咽び聞くソフィーの姿が、なぜか脳を掠めたりはしないだろうか。彼女は今生の際に際して、感謝するだろうか、あるいは後悔し懺悔するだろうか。

 

 日常に新たな意味が添加されたとき、その作品は全く別な色合いで以て、私たちの前に現れだす。『大室家』もまさにその例と言えないだろうか。

 「撫藍」を、「撫みほ」を、「撫めぐ」を妄想するとき、平凡な女子高校生の日常は突如その様相を変えて、私たちの前に再臨するのだ。

 

 

私は撫めぐを推したい。

終わり